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逍遥軒と言った方が一般的に知られてるでしょうか?
今回は兄信玄の「影武者」、また、武人画家として有名な

武田逍遥軒信廉武田形部少輔信廉です。
(たけだぎょうぶのしょうのぶかど)

信虎の三男(四男とも)。生母は大井氏。
幼名は孫六。通り名の逍遥軒は信玄死後
出家して、信綱と改め親族衆筆頭して勝頼を
よく補佐しました。


信廉に関しては、武将のとしての実績はほとんど伝えられていませんが、
戦国の武人画家としては、多くの遺作が伝わっているようです。

・大泉寺へ父武田信虎画像を奉納
・母大井夫人画像(甲府・長禅寺)
・信玄を不動王に模した鎧不動尊画像(塩山・恵林寺)

また主な活躍としては・・・
・榛名山箕輪城攻め
・高遠城主
・兄信玄死後は飯田城や大島城などの要所守衛
・長篠の戦

長篠の戦で敗戦後は、武田氏は急落する。
信廉も信長軍に捕らえられ、斬首されてしまう。
享年51歳。

信廉に関する資料、作品、著書ほとんどが
彼の画才を称えているものが多い。
逆に武勇に関しての記録は少ないようだけど・・・・

横山光輝氏の作品 「武田信玄」「武田勝頼」では、
彼の武将らしい活躍や、兄信玄とのかけあいが描かれて
いますので、信廉、逍遥軒がお好きな方はぜひ一度
ご覧になって下さい。


武田信玄 (5) 横山光輝氏武田勝頼 (1) 横山光輝氏横山光輝氏著 

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「典厩信繁こそは武田の真の副大将」

IMG_4529.jpg今回のご紹介は
信玄が実弟にて内外共に人気の高い 
 武田典厩信繁 です。
(たけだてんきゅうのぶしげ)

兄信玄に注目が集まりがちだけど
信玄に負けないくらい魅力的な武将なのです。

その賛辞は数多くの書物や伝記からも 
伺うことが出来ます。

『駿台雑話』から
「天文、永楽の間に賢と称すべき武将は武田信玄の弟、
典厩信繁である。兄信玄に仕えて人臣の節を失うことなく、
その忠信、誠実は人の心に通じ、加えて武威武略に長じ、
知剛知柔、まことの武将とは信繁ごときに人物をおいて
他にない。」

戦国時代の世においても、
織田信長は自分の家臣に対して、信繁の忠節勲功を説き、
武田家家臣 真田昌幸は自身の次男に信繁と名づけている。
(彼こそが、日本一の兵(つわもの)と云われた 真田幸村です)

さてさて主な活躍としては、
・伊那侵攻
・上田原の戦い
・塩尻峠の戦い
・川中島の戦いなど・・・

常に武田の副大将として活躍し、信玄を助け、
「武田最強騎馬軍団」を築き上げた信繁も
川中島合戦第四回目で落命することになります。

永禄四年(1561)朝霧立ち込める、川中島八幡原
信玄率いる武田勢は、馬場民部、山本勘助の進言による 「啄木鳥戦法」
対峙する 謙信率いる越後勢は 「車懸かりの陣」にて妻女山をおり
早朝奇襲かけます。

こんな歌があります。

頼 山陽(らい さんよう)
 
鞭声粛々夜河を渡る暁に見る
千兵の大牙を擁するを
遺恨十年一剣を磨き
流星光庭長蛇を逸す

奇襲を受けることになる武田軍は別働隊の到着まで
劣勢を強いられます。防戦必死の武田の陣形は「鶴翼の陣」。
信繁はその左翼を務めます。
短期決戦を挑む、上杉軍の前に、武田本陣近くは混戦となり
兄信玄を慕う信繁は、懸命に本陣近くを死守します。
けれども、多勢に無勢。

信繁も逃げれば、生きる道もありましたが、
尊敬する兄を守り、自分を犠牲にしてでも
別働隊到着まで、時間を稼ぐにことに徹するのです。
押し寄せる越軍に果敢に立ち向かいますが、
信繁の体に無数の槍が交錯するのです。

信繁享年37歳。

その後、別働隊到着により形勢は一転します。
甲越両軍はこの戦いにおいて、大勢の死者を出しますが
甲軍は川中島をわが領土とすることになります。

川中島で戦死した信繁の亡骸に、兄信玄は抱きつきながら
号泣し続けたという逸話も残る。
その後、信繁の生前の振る舞いは「武士」たるもの手本として
語り継がれることとなります。

典厩寺長野インター付近ある
典厩寺

真田昌幸の長兄 真田信之が
信繁の菩提を弔うた命名






典厩寺 閻魔像境内にある閻魔堂

日本一大きな
閻魔像があります

川中島の戦死者を
供養のため建てられました





典厩寺
休日には多くの
参拝者が訪れます




















このシリーズを始めようと思った気持ちが続くうちに、
更新作業を頻繁に行ないたいです。

IMG_4454.JPGさて二人目は、二十四神将の中でも
人気の高い 高坂弾正忠昌信公 です。
(こうさかだんじょうのじょうまさのぶ)

この人も幸隆公同様、戦国の三弾正のひとりで
人呼んで「逃げ弾正」。
戦国の世に於いて敵に背を向け逃げると言うことではなく
合戦に際し、緻密な情報収集により、敗戦を避け
知略により勝算をたてた、深慮遠謀に長けた知将として
その賛美での意味が込められていました。

主な活躍として・・・
・信濃平定戦では小岩城攻略で一番乗り
・小諸城城代
・初代海津城城代→上杉対策最前線の防衛と牽制
・川中島の合戦における活躍
・三方ヶ原の戦い参戦

美童であったようで、信玄公の寵童であったことは有名な話。
また「甲陽軍艦」の作者としても紹介されている(諸説あり)。
信玄没後も海津城に留まり、亡き親方様(信玄のこと)の
遺言どおり、上杉方牽制のため、海津城にて信濃治世に務める。

IMG_4408.jpgIMG_4410.jpg







高坂弾正が初代城主を務めた海津城(松代城)
百三十年振りに復元された


IMG_4415.jpgIMG_4412.jpg










北に千曲川の天然要害
の堅固な平城上杉方を望む

毎週、甲信越の何処かしらに行っているので、
武田信玄公縁(ゆかり)の事を書きたいと思い、
シリーズで「武田二十四将」を特集したいと思います。

IMG_4447.JPG今回のトップバッターは
真田弾正忠幸隆公(さなだだんじょうのじょうゆきたか)です。

戦国三弾正の一人で通称「鬼弾正」。
旗印はご存知、「六紋銭」。(ろくもんせん、または、むつれんせん とも)

幸隆公は、真田氏の始祖いわれ、東信濃名族海野氏の直系です。
(最近では諸説あります)
信州先方衆の首領として、信玄公が最も頼りにした武将の一人。



主な活躍は東信濃方面で・・・

・内山城(現佐久市)の攻略
・志賀城(同上)の攻略
・砥石城を調略により攻略
・川中島の戦い

特に 「砥石崩れ」 で信玄公が大敗を喫した砥石城を、村上軍内部に偽情報で錯乱し、
敵兵をうまく自身の城に誘い込んで城門を閉ざし、少数の手勢で散々に殲滅させたと言います。
この功績は、北信攻略において、また幸隆公の地位をも、名実共に不動のものとしました。

川中島合戦後は、甲斐本国の守衛に当たりましたが、
彼の子息達も父に劣らず剛者で、信綱、昌輝、昌幸、信尹四兄弟も武田家に使え
第一線で活躍しました。
晩年は「一徳斎」と改め、入道剃髪し信玄公が亡くなった翌年に
後を追うように世をさります。(享年62歳)


IMG_4444.jpg







菩提寺は長野県小県にある長谷寺
静かな山間にあります



IMG_4445.jpg







瓦にはご存知「六紋銭」と「結雁金」




IMG_4438.jpg









大河ドラマ「風林火山」でも幸隆公が大活躍
観光客もあとを絶たない
本日、届きました。

合格通知。

文部科学省後援 色彩検定3級。

IMG_4398.JPG








印刷会社の営業をして早14年。
お客様との商談中に、色の事を イロイロと聞かれる事が多く
本格的に 色 のことを知りたくて、この検定試験にチャレンジ
してみた次第でございます。

さてさて、このブログ内コンテンツ  も色彩検定3級の者が
記事を書いていると言うことで、少しばかり「プロっぽい」訳です。

とは言っても、当然、3級とは初心者資格な訳であり・・・・トホホホ。

それでは、今後とも よろしく御願いしたいのであります。

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